エクスプレス The Express (2008) 3/5 (1)


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スタッフ・キャスト/製作年/製作費/上映時間/興行収入
・アカデミー賞
全ストーリー(結末あり)
解説(簡略ストーリー)
★★★☆☆

史上最高のフットボール・プレイヤーになる夢を果たせず、白血病のためにわずか23歳で亡くなった伝説のフットボーラー、アーネスト”アーニー”R・デイヴィスの苦闘の人生を描く、監督ゲーリー・フレダー、主演ロブ・ブラウンデニス・クエイド他共演のヒューマン・ドラマ。


ドラマ(ヒューマン)


スタッフ キャスト ■

監督:ゲーリー・フレダー
製作:ジョン・デイヴィス
原作:ロバート・C・ギャラガー
脚本:チャールズ・リーヴィット

撮影:クレイマー・モーゲンソー
編集
パドレイク・マッキンリー
ウィリアム・スタインカンプ

音楽:マーク・アイシャム

出演
アーネスト”アーニー”R・デイヴィスロブ・ブラウン

ベン・シュワルツワルダーデニス・クエイド
ジム・ブラウンダリン・デウィット・ヘンソン
ジャック・バックリー:オマー・ベンソン・ミラー
ウィリー”ポップス”デイヴィス:チャールズ・S・ダットン
ロイ・シモンズ:クランシー・ブラウン
ウィル・デイヴィスJr.:ネルサン・エリス
ルー・アンドリース:チェルシー・ロス
アート・モデールソウル・ルビネック
サラ・ウォード:ニコール・ビヘリー
マリー・デイヴィス:アーンジャニュー・エリス
ボブ・ランディ:ジェフ・スタルツ
フロイド・リトルチャドウィック・A・ボーズマン

アメリカ 映画
配給 ユニバーサル映画
2008年製作 129分
公開
北米:2008年10月10日
日本:未公開
製作費 $40,000,000
北米興行収入 $9,589,875
世界 $9,808,124


*詳細な内容、結末が記載されています。
ストーリー ■

1949年、ペンシルベニア州、ユニオンタウン
図抜けて足の速い少年アーニー・デイヴィスは、貧しくとも、祖父ウィリー”ポップス”デイヴィス(チャールズ・S・ダットン)ら家族に温かく見守られて育った。

1950年7月。
ウィリーに育てられていたアーニーは、母マリー(アーンジャニュー・エリス)の再婚を機に、住み慣れた地を離れることになる。

1951年9月、ニューヨーク州エルマイラ
地元の少年フットボール・チームに入ったアーニーは、俊足を生かして大活躍する。

1957年、シラキュースシラキューズ大学
カレッジ・フットボール界のスター、ジム・ブラウン(ダリン・デウィット・ヘンソン)は、NFLの”クリーブランド・ブラウンズ”にドラフト1位指名されるが、ハイズマン・トロフィーを逃したことにやや不満を示す。

ジム・ブラウンの穴を埋めるために、シラキューズ大のヘッドコーチ、ベン・シュワルツワルダー(デニス・クエイド)は、コーチのロイ・シモンズ(クランシー・ブラウン)と共に新人選手を探していた。

シュワルツワルダーは、エルマイラ高校の注目のランニングバックとして活躍するアーニー・デイヴィス(ロブ・ブラウン)に目を付けて、彼を獲得するためにブラウンの手を借りようとする。

デイヴィスは、スター選手のブラウンまで現れたことに驚き、ペンシルベニアから来ていた祖父ウィリーや、家族と共にシュワルツワルダーらを家に招待する。

ウィリーは、シラキューズ大学を選ぶことが、自分達にとって良い選択か、そしてシュワルツワルダーが孫を預けるのに相応しい人物かを見極める。

1958年8月。
シラキューズ大学のキャンパスに着いたデイヴィスは、学生や職員の視線を気にしながら施設を見学して回り、同校からは、ハイズマン・トロフィーの受賞者が出ていないことを、シュワルツワルダーに知らされる。

そして、シュワルツワルダーの下、厳しいトレーニングは始まり、デイヴィスは同じアフリカ系の同僚ジャック・バックリー(オマー・ベンソン・ミラー)から、自分達が、試合に勝つためだけに招かれていることを教えられ偏見の現実を知る。

新入生ながら、レギュラー・チームに合流したデイヴィスは、たちまちその実力を発揮するが、バックリーの忠告通りの手痛い洗礼を受ける。

1958年10月4日、アーチボルド・スタジアム
雨の中の戦い、シラキューズ大はホームゲームで、格下のホーリー・クロス大学に負けてしまう。

1959年9月26日、アーチボルド・スタジアム
シラキューズ大学 VS カンザス大学ハーフバックとして出場したデイヴィスは、期待に応えた活躍をしてチームを勝利に導く。

久し振りにペンシルベニアの祖父ウィリーを訪ねたデイヴィスは、幼馴染のウィル(ネルサン・エリス)と全米黒人地位向上協会(NAACP)の集会に参加する。

デイヴィスはウィルから運動に誘われるが、奨学金やプレイを続けるために、それには参加できないことを伝える。

その後シラキューズ大は、シュワルツワルダーの巧みな戦術とデイヴィスの活躍で連勝を続ける。

そんな時、デイヴィスの心の支えだった祖父ウィリーが亡くなり、彼は大きな試練に耐えることになる。

1959年10月24日、マウンテニアー・フィールド
ウエストヴァージニア大学 VS シラキューズ大学観客も含めて敵の荒っぽい戦法に悩まされ、デイヴィスの活躍が、チームを危険にさらすと考えたシュワルツワルダーは、彼を交代させてしまう。

いとこのウィルの、白人の言い成りかという言葉を思い出したデイヴィスは、シュワルツワルダーの指示を無視しタッチダウンしてしまう。

シュワルツワルダーは激怒し、命令に従わないデイヴィスをベンチに下げるが、彼は自分を人間として扱わないのなら、コーチも この場の敵と同じだと言い返してしまう。

帰りのバスで、興奮したことをシュワルツワルダーに謝罪したデイヴィスだったが、選手を信頼して支えて欲しいことを、彼に重ねて訴える。

シラキューズ大は、カンファレンス首位を独走し”エルマイラ・エクスプレス”と呼ばれたデイヴィスは、神業とも思えるようなプレイを続ける。

1959年12月5日。
UCLAを大差で破ったシラキューズに、”オレンジボウル”と”コットンボウル”のオファーが届き、選手達は自分達の下にいる最強チーム、テキサス大学(コットンボウル)を相手に選ぶ。

テキサス大との対戦準備を勧めるシラキューズだったが、デイヴィスらは、体験したことのない南部の差別とも戦わなければならなかった。

ダラスに到着したチームだったが、デイヴィスらへの想像以上に厳しいあからさまな差別に接する。

マネージャーのルー・アンドリース(チェルシー・ロス)は、アフリカ系選手の出場をシュワルツワルダーに止めさせようとする。

しかし、勝つために来たというシュワルツワルダーは、プレイするというデイヴィスの意志を支持する。

1960年1月1日、テキサスダラスコットン・ボウル
シラキューズ大学 VS テキサス大学試合は始まり、デイヴィスは練習中に痛めたひざをかばいながら、ビッグ・プレイを決めシラキューズが先制する。

その後もシラキューズが攻勢を続け点差を広げるのだが、テキサスデイヴィスに対するレイトヒットがきっかけで、両チーム入り乱れての大乱闘になる。

ハーフタイム前に15点の点差となり、シュワルツワルダーは、デイヴィスの足のことを考え、彼を交代させて後半を迎える。

テキサスに、連続でタッチダウンを決められたシラキューズは1点差に迫られ、デイヴィスは社会が考える差別への常識を打ち破るため、自らフィールドに戻る。

しかし、ボールを受けたデイヴィスは、ダウン後にボールを放したのをハンブルと判断されてしまう。

ディフェンスに残ったデイヴィスは、次のプレイでテキサスのパスをインターセプトする。

13ヤード地点からのプレイ、パスを受けたデイヴィスは、87ヤードを走りきりタッチダウンを決める。

そして、ジム・ブラウンもスタンドで見つめる中、シラキューズは勝利し全米チャンピオンの座を獲得する。

MVPはデイヴィスとなり、アフリカ系を拒絶するカントリークラブでの祝典をチームは拒否し、バーで勝利を祝う。

1961年12月
ニューヨークダウンタウン・アスレチック・クラブ
デイヴィスは三人の候補の中から、アフリカ系選手としては史上初となる”ハイズマン・トロフィー”の受賞者に選ばれる。

そして、デイヴィスはスピーチで、家族や祖父ウィリー、そしてシュワルツワルダーに感謝し、その後、ケネディ大統領と対面して祝福される。

1962年2月8日、NFLドラフト
デイヴィスは、アフリカ系として初めて全体の1位でワシントン・レッドスキンズに指名されるが、ボビー・ミッチェルと1巡目指名権を引き換えにクリーブランド・ブラウンズにトレードされる。

1962年7月。
デイヴィスは、オールアメリカン・ゲームに向けて練習に励んでいたが、フィールドで倒れてしまう。

その後、クリーブランド・ブラウンズのキャンプに参加していたデイヴィスは、オーナーのアート・モデール(ソウル・ルビネック)から、検査の結果、病気のため今シーズンの出場が無理なことを伝えられる。

ショックを受けたデイヴィスは、恋人サラ・ウォード(ニコール・ビヘリー)に、病気の進行が進んでいることを知られる。

1962年7月22日。
記者会見を開いたデイヴィスは、自分が白血病であることを公表し、それと闘うことを誓う。

コネチカット州、ニューヘイヴン
シュワルツワルダーと新人の発掘に同行したデイヴィスは、有望な高校生フロイド・リトル(チャドウィック・A・ボーズマン)と対面する。

デイヴィスは、自分が今後プレイできないことをリトルに伝え、自分を目指すのではなく、最高のプレイヤーになるべきだと助言する。

1962年8月18日、クリーブランド・スタジアム
姿を現したシュワルツワルダーに声をかけられたデイヴィスは、リトルノートルダム大学を断り、シラキューズ入りしたことを知らされる。

そしてデイヴィスは、シュワルツワルダーに自分の代わりはいないと励まされ、開幕戦の紹介選手としてユニフォームを着て、チームメイトのジム・ブラウンと共にフィールドに向かう。
__________

アーニー・デイヴィスは、1963年5月18日に白血病のため23歳で死亡した。

葬儀には1万人が訪れ、”彼は、この国の若者に力を与えた偉大な男だった、これからも、力を与えてほしい”という、ケネディ大統領からのメッセージが読まれた。

デイヴィスは、NFLでプレイすることはなかったのだが、クリーブランド・ブラウンズは、彼の背番号”45”を永久欠番にした。

ジム・ブラウンは、NFLのラッシング・ヤード記録を達成し、1966年に引退した。

フロイド・リトルは、シラキューズ大学ブラウンデイヴィスの背番号44を引き継いで活躍し、プロに転向後、デンバー・ブロンコスで9シーズン、プレイした。

シュワルツワルダーは、その後もシラキューズ大学を10年間指導し、カレッジ・フットボールの殿堂入りを果たした。(1993年没)


解説 評価 感想 ■

ロバート・C・ギャラガーの著書”Ernie Davis: The Elmira Express, the Story of a Heisman Trophy Winner”を基に製作された作品。

*(簡略ストー リー)

言葉を話すこともままならないアフリカ系の少年アーネスト・R・デイヴィスは、祖父ウィリーに温かく見守られながら育った。
母の再婚で引っ越したデイヴィスは、俊足を生かし地元の少年フットボール・チームで活躍する。
高校に入ったデイヴィスは注目選手となり、NFL入りするスター選手ジム・ブラウンの抜けた穴を埋めるため選手を探すシラキューズ大学ヘッドコーチ、シュワルツワルダーが彼の獲得に乗り出す。
シラキューズ大に入学したデイヴィスは、アフリカ系に対する偏見と闘いながらもその才能を開花させる。
そして、シュワルツワルダーの指導の下、数々の苦難を乗り越え全米チャンピオンにも輝いたデイヴィスアフリカ系選手として初めて、最高の栄誉”ハイズマン・トロフィー”を受賞する。
しかし、史上最高のプレイヤーとして期待され、NFLドラフトでも1位の指名を受けクリーブランド・ブラウンズに入団したデイヴィスを、突然、死に至る病魔が襲う・・・。
__________

アメリカ人なら誰でも知っている、伝説のフットボーラー、アーネスト”アニー”R・デイヴィスの全盛期の活躍を描くドラマだが、アフリカ系の人々の受けた最も苦しい時代に生きた青年の偏見との闘いを切実に描いた、社会派ヒューマン・ドラマとしても考えさせられる作品。

巻末に、ウェストヴァージニアの試合の様子は脚色とあるが、それを上回る描写が続く”コットンボウル”のシーンなどを見ていると、アマチュアス・ポーツでありながらあれほどの酷い仕打ちを当時の人々が経験していたかと思うと、ぬるま湯に漬かり過ぎてボケ気味の日本人には想像がつかない社会があることがよくわかる。

それを乗り越えて各世界で活躍する人々が、どれだけ逞しく成長するかも改めて実感できる作品。

しかし、同じような題材の作品が数ある中で、アニー・デイヴィスの人物像が再確認できること以外は、それほど内容に新鮮味はなく平凡な作品とも言える。

興行的にも全く振るわなかった作品で、残念ながら日本では未公開に終わった。

シラキューズ大学の、全面協力によるキャンパスのロケなどを見ていると、アメリカの大学の施設環境の素晴らしさに圧倒される。

主人公を支える名コーチ、ベン・シュワルツワルダー役のデニス・クエイドの熱演が印象に残る。

アニー・デイヴィス役のロブ・ブラウンデイヴィスを見守る名プレイヤー、ジム・ブラウンダリン・デウィット・ヘンソン、同僚選手オマー・ベンソン・ミラー、主人公が慕う思慮深い祖父チャールズ・S・ダットン、いとこ役のネルサン・エリス、母アーンジャニュー・エリス、コーチのクランシー・ブラウン、チーム・マネージャーのチェルシー・ロスクリーブランド・ブラウンズ・オーナーのアート・モデールソウル・ルビネック、主人公の恋人役ニコール・ビヘリー、そして、フロイド・リトルチャドウィック・A・ボーズマンなどが共演している。


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